名作時代小説のなかで、以前に取り上げた藤沢周平に次いで好きなのが山本周五郎である。中学生の頃に「小説
日本婦道記」の抄録を読んだのが山本周五郎との出会いだったが、当時は良妻賢母を前面に押し出しているような気がして、あまり好きにはなれなかった。最近になって、ようやく日本婦道記シリーズの良さがしみじみとわかってきたところだ。日本婦道記シリーズを読み返しながら他の山本周五郎作品を読むうちに、なかなか楽しい1編が出てきたので、今回はそれを取り上げたい。
主人公の柴山大四郎は、以前に取り上げた『用心棒日月抄』の青江又八郎と同年齢の26歳、ただし浪人ではなく、こちらは武家の四男坊である。いわゆる「部屋住み」とか「冷や飯食い」などと言われる、厄介者の居候だ。だが柴山家は武家にしては珍しく万事において鷹揚で、大四郎は冷や飯食いながらも大らかに育っている。末っ子のせいか全体にまだ子供っぽさが残り、冒頭では母親におやつをもらいに行っているくらいだ。日に何度か母親の部屋を訪ねて、甘いものをもらうのが彼の習慣なのである。それを母親や兄たちがかわいいものだと思っているあたりが、武家に似ず微笑ましい。
〈大四郎は、柴山家の四男坊である。父の又左衛門は数年まえに死に、長兄が襲名して家を継いでいる。次兄の粂之助は家禄三百石の内から五十石貰って分家し、三兄の又三郎は中村参六へ養子に入った。中村は新番組の百九十石で、なかなか羽振りのいい家である。……大四郎は二十六歳になるが、いわゆる部屋住で兄の厄介者だ、思わしい養子の話もないし、次兄が五十石持っていったので家禄を分けてもらうわけにもいかない。〉
当時の武家にとって、家督を継ぐ長男以外はすべて後継ぎの補欠要員だった。そのため屋敷の一角に部屋を与えて、いわば飼い殺しに近い状態で養っていたのである。出仕したくても太平の世に武士の三男や四男が就ける役職は皆無と言って良く、柴山家のように家禄を分ける余裕があれば良いが、下級武士ではそうはいかない。部屋住みが出世をするには、柴山家の三男のように婿養子の口を探して、養子先の家督を継ぐしかなかったのである。だがそうそう婿養子の口があるはずもなく、さすがの柴山家も四男坊にまでは手がまわらなかった。
だが大四郎は自分の将来を気にするふうでもなく、のほほんと趣味に熱中していた。どうにでもなれと投げ出しているわけでも諦めているわけでもなく、家族全員が「いつかなんとかなるだろう」とノンキに構えているのだ。周囲からしてそんな調子なので、大四郎も普段は古本蒐集に精を出していた。長兄からもらう月々の小遣いをやり繰りしては、古道具屋などで古書を買い集めるのが、彼の生きがいだったのである。大四郎にはかなりの鑑識眼があり、十把一絡げのなかに、稀覯本を発見することも少なくなかった。
だがそんなある日、大四郎は運命の女性と出会ってしまう。古本屋からの帰り道で、とある娘を見初めてしまったのだ。彼は自分の初恋を母親に相談するが(愛すべき率直さである)、「四男坊の冷や飯食い」ではおいそれと嫁をもらうわけにはいかない。大四郎は悲嘆に暮れた。
〈前例はいくらでもある。そのなかでも母方の叔父で中井岡三郎という、もう四十七八になる人のことが思い出される。三男なのだ、その歳になってもまだ部屋住で、尺八を吹いたり、庭いじりをしたり、暗い陰気な部屋で棋譜を片手にひっそりと碁石を並べたりして暮らしている。……大四郎は、いまそのことを思い出してうんざりした。それからまた身のまわりを眺め、すっかり装幀を仕直して積んであるのや、買って来たままつくねてある古本の数々を見、北向きの窓から来る冬ざれた光のさす、畳も襖も古びきった部屋のうちを見やって、自分もやがては中井の叔父のように、ここで鬱陶しく一生を終わるだろう、といったふうな、やりきれないもの思いに閉ざされたりした。〉
中井岡三郎のような男を、この時代「厄介叔父」と言った。冷や飯食いのまま婿養子の口もなく中年を迎えてしまった場合、家督を継いだ長兄の息子、つまり甥の居候となる。厄介叔父とは、後を継いだ甥から見た、部屋住みの叔父を称した言葉である。いまなお娶らず禄喰まぬ叔父の、その哀愁に満ちた背中を、大四郎はようやく自分のものとして感じられるようになったのである。
さて大四郎が佳人を見初めたのは、片町通りにある古道具店を出たときだった。「香林坊のほうからそのひとが来た」とあるため、舞台は前田家加賀百万石の城下町・金沢だとわかる。名所名跡の多い金沢のなかでも、武家屋敷が軒を連ねる「長町の武家屋敷」はことに有名で、金沢の繁華街である香林坊から少し裏道へ入っていくと、昔ながらの土塀が続く屋敷町を見学することができる。私も大河ドラマのブームに沸く金沢を訪ねたとき、長町の武家屋敷を見学してきた。
写真(右)は土壁が続く長町の路地、「武家屋敷跡
野村家」、「旧加賀藩士 高田家跡」である。複雑に入り組んだ石畳の路地は、前田利家が敵の攻撃を防ぐために考えた道の名残で、「長町」という名称は前田八家のひとつ・長氏の屋敷があったことに由来しているという。羽板葺きの屋根のついた土塀や武士窓のある門構えが残る長町一体には、上〜下級の加賀藩士が、それぞれの禄高に応じた屋敷に住んでいた。三百石取りの柴山家は、中級藩士といったところだろう。中級藩士の役職は馬廻り役から小姓組、近習衆、普請奉行、改作奉行付、門番役、藩校関係、算用場、産物方と多種に渡り、柴山家もそのいずれかに奉公していたに違いない。禄高によって宅地面積が定まっていた加賀藩では、三百石から四百石取りまでの武家には三百坪の敷地が与えられていた。周囲には黄土色の土壁を巡らせ、高禄になると長屋門、物見などが設けられたという。
「武家屋敷跡 野村家」は、利家の金沢城入りの際に直臣として従った野村伝兵衛信貞の屋敷跡で、千二百石取り、御馬廻組頭や各奉行職などを歴任していた。総檜の天井や桐張りの床板など、豪華な作りを持つ千坪の屋敷である。「旧加賀藩士
高田家跡」は、五百五十石取りの高田家の敷地跡に武家屋敷を再現したもので、池泉鑑賞式武家庭園や長屋門を修復してある。高禄の家臣の屋敷は藩内の自領に置かれるのが一般的だったが、加賀藩では禄高や身分に関わらず、武家の屋敷はみな城下内に集められていた。城下町の整備が整った17世紀後半には、城下の70%を武家屋敷が占め、城の周囲には「前田八家」と呼ばれるトップクラスの武士の屋敷が集まっていたという。柴山家も、そんな武家のひとつだったに違いない。
〈大四郎はとぽんとしてしまった、一生ひやめしと諦めていたのが、正経閣出仕で十人扶持、分家が定まれば百石以上で家も貰えるという、また本には代え難いが三十金という大枚な金もはいる、あんまり思いがけない事ばかりで、すぐには嬉しいという気持ちさえ感じられなかった。〉
さてその大四郎であるが、好きな娘は諦めなくてはならない、苦労して集めた古書は藩主に献上しなければならないと面白くないことが続いたが、最後に思わぬ幸運が舞い込んできた。古書に対する鑑識眼を買われ、文庫の購書取り調べ役に取り立てられることになったのである。こうして晴れて百五十石取りとなった大四郎は、三番町に屋敷をもらって独立し、片町通りで見初めた娘・ぬいと祝言をあげた。実はぬいも大四郎を想っていて、どうか結ばれるようにと千羽鶴を折っていたというのだから、なんとも幸せなエンディングである。
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