英国最高の文学賞・ブッカー賞を受賞した『日の名残り』(The
Remains of The Day)は、英国の華麗なマナーハウス(中世に端を発する貴族や富裕階級の邸宅)を舞台に、執事と女中頭との間に芽生える淡い恋心を織り交ぜながら、古き良き時代への憧憬を綴った名作である。作者のカズオ・イシグロは1954年に海洋学者の家に生まれ、5歳のときに両親に伴われて渡英した。以来、国籍をイギリスに移して活躍を続けている。
イシグロ氏の代表作のひとつであり、ジェイムズ・アイヴォリー監督によって映画化もされた『日の名残り』は、英国の古き良き時代の体現者である「執事」を主人公に、イギリス貴族と彼らが住む壮麗な邸宅を鮮やかに描き出している。豪華な書斎やダイニングだけでなく、邸宅のいわば楽屋裏とも言えるキッチンや召使い部屋の様子、執事や女中頭をはじめとする召使いたちの働きぶりが伺えて興味深い。この作品や『ゴスフォード・パーク』などは、1930年代のイギリスの上流階級とその周辺を知るための、良き案内人となってくれるだろう。
〈かつて、私のもとで十七人の雇い人が働いていたことがあります。そう遠くない昔には、ここダーリントン・ホールに、二十八人もの召使が雇われていたと聞いております。その同じ家を四人で切り回す!〉
主人公のスティーブンスは、オックスフォードシャーにあるダーリントン卿の邸宅「ダーリントン・ホール」に仕える執事である。イギリスにおける執事の歴史は古く、主家に仕え主人を補佐する専門家である執事は、イギリスの名産品とまで言われた。「執事はイギリスにしかおらず、ほかの国にいるのは、名称はどうあれ単なる召使いだ」という言葉まであったらしい。
ときには親子三代に渡って仕えることもあり、スティーブンスも、のちに別の邸宅での役目を終えた父親(ミスター・スティーブンス・シニア)を、副執事としてダーリントン・ホールに迎えている。この役職に世襲的な雰囲気があったせいか、スティーブンスは最初、父の監督下で執事見習いをはじめ、やがて同じくオックスフォードシャーにあった比較的小さな邸宅で、執事デビューなるものを果たした。
〈電気と新しい暖房のこの時代に、ほんの一世代前にせよ、過去と同じ人数をそろえておく必要がどこにありましょう。むしろ、伝統の名のもとに漫然と多人数を雇いつづけることが、召使いに不健全な暇を与え、この職業に急激な堕落をもたらしたのではありますまいか。それに、ファラディ様がお住まいになるダーリントン・ホールは、過去のダーリントン・ホールとは違います。今後、華やかな社交的行事がほとんど見られなくなるのは、ファラディ様ご自身の口からも明らかなのですから。〉
執事の仕事は、実に多岐に渡る。屋敷の管理はもちろん、使用人たちの監督、主人の秘書、遺言執行人までこなすのが常だった。スティーブンスの働きぶりを見ていると、食事時の給仕のほか、銀器磨きや肖像画にハタキをかけることも、執事の重要な任務のひとつだったようだ。
この対極に女中頭(ハウスキーパー)がいて、この2人が邸宅の管理運営の一切をまかされている。執事の下には、大邸宅なら副執事が、そうでなければ従僕頭がいて、上司のサポート役を務めていた。女中頭の下にはやはり筆頭メイドがおり、ほかに料理長以下キッチン専門の使用人たちが働いている。
こうした使用人たちは、住み込みが基本だった。彼らが寝起きしたのは、翼の屋根裏などである。ミドルクラスよりさらに下の、ワーキングクラスの人々にとって、由緒ある邸宅への就職は「行儀見習い」の意味もあり、親たちも喜んで送り出していたようだ。
〈召使部屋の並ぶ一角を背骨のように貫いている裏廊下は、相当な長さがありますが、その割に日光がほとんど差し込まず、いつも陰気な感じのする場所でした。その暗さというものは、天気の良い日でさえトンネルの中を歩くようなもので、あのときも、板敷の廊下に聞き覚えのある足音が響いてこなかったら、私は誰が近づいてくるのかを、相手の体の輪郭から判断せねばならなかったでしょう。〉
ワーキングクラスの子女が行儀見習いにやってくる以上、管理する側にもそれなりの責任がある。特にメイドと従僕の駆け落ちは日常茶飯事で、ひどいときには主家の財産を持ち逃げする場合もあった。スティーブンスの長期的な採用計画のなかでは、召使い同士の出奔も想定されている。そのため、大勢の召使いを擁する大邸宅では、男女のフロアがきっちりと分けられていた。階段や廊下への入り口も、別々に設置されているところがあったという。
そんな業界だったからこそ、「執事と女中頭の恋」など、あっていいはずがなかった。スティーブンスは私情を抑え、みずからの胸に生まれた女中頭ミス・ケントンへの想いを封じる。失恋したミス・ケントンが結婚を機にダーリントン・ホールを去るのは、それから間もなくのことだった。
〈「でも、そうは言っても、ときにみじめになる瞬間がないわけではありません。とてもみじめになって、私の人生はなんて大きな間違いだったのかしらと、そんなことを考えたりもします。そして、もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を――たとえば、あなたと一緒の人生を――考えたりするのですわ。そんなときです。つまらないことにかっとなって、私が家出をしてしまうのは……。でも、そのたびにすぐ気づきますの。私のいるべき場所は夫のもとしかないのだって。結局、時計を後戻りさせることはできませんものね。架空のことをいつまでも考え続けるわけにはいきません。人並みの幸せはある、もしかしたら人並み以上のものかもしれない。早くそのことに気づいて、感謝すべきだったのですわ」〉
時代と持ち主が変わり、昔よりは便利な機械が増えたとは言え、かつて17人で切り盛りしていた大邸宅を4人でやりくりしていくのは、並大抵の苦労ではなかっただろう。スティーブンスも多忙のためにミスを犯しがちになり、増員の必要に迫られる。スティーブンスが一番初めに思いついたのは、20年前に結婚を機に女中頭の職を退き、届いたばかりの手紙を読む分には、どうやらあまり幸福な結婚生活には恵まれていないらしいミス・ケントンを、再び女中頭としてダーリントン・ホールに呼び戻すことだった。
新しい主人のファラディからちょっとした自動車旅行を勧められたスティーブンスは、貸し与えられた自動車に乗って、かつての同僚だったミス・ケントンを訪ねる。その追憶の旅が、本作のストーリーだ。主人の自動車を借りて西へ旅するスティーブンスは、美しい田園風景を眺めながら、亡き主人や父親、ミス・ケントンとの思い出、ダーリントン・ホールで開かれた数々の外交会議の思い出にひたる。
長年仕えてきたダーリントン卿は、戦後、ナチスの手先だったとして糾弾され、失意のうちに世を去った。だが今でもスティーブンスは最高の主人だったと信じ、敬慕の情を抱いている。人徳のある主人に仕えることこそ執事のすべてだと考えるスティーブンスにとって、過去は大きな輝きに満ちていると同時に、小さな後悔の集大成でもあった。だがスティーブンスの心は、穏やかに凪いでいる。栄光もあり、過ちもあった過去をそのままに受け止めた今、思い出は思い出として、彼の心に美しく生き続けるのだろう。
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