祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり――帝政・院政・摂関政が入り乱れた平安末期、日本は大きな転換期を迎えようとしていた。保元元年(1156)に起こった保元の乱(祟徳上皇と後白河法皇の対立)をきっかけに武士が中央への進出を果たし、鴨長明の『方丈記』で紹介した通り、貴族に代わって武士が政治の表舞台に立つようになったのである。
やがて保元の乱に続いて平治の乱(院政派と反院政派の政権争い=平氏と源氏の勢力争い)でも軍功を上げた平清盛が正三位に特進し、さらに昇進を重ねて太政大臣にまで上り詰めると、平家一門は「平家にあらずんば人にあらず」と豪語し、権勢をほしいままにするようになった。
けれど、おごれる人も久しからず。清盛に率いられて栄耀栄華を極めた平家一門も、清盛が熱病で倒れるや相次ぐ戦で源氏の軍勢に破れ、ついには屋敷を焼き払っての都落ちにまで追い込まれる。華やかな日々は春の夜の夢のように短く、一時の夢から醒めた平家一門を待っていたのは、もはや逃れる術のない滅亡への道だけだった。
〈平家が二度の戦いに勝って勢いづく一方で、その目覚しい軍功によって「朝日将軍」と称されていた義仲の評判は、確実に落ちはじめていた。義仲の軍勢は京の到るところで無法を働き、略奪を働いていたからである。
「田を刈り取って馬の餌にして、なにが悪い。馬に乗らずに都の警護ができるか。法皇ともあろうおかたが、なぜそんな些事をいちいちお咎めになるのだ。大臣や宮さまの御所に押し入ったのならいざ知らず、兵どもとて兵糧を食い尽くせば、都の家々へ米の無心に出向くこともあろう。どうせあの鼓判官めが、法皇さまにあることないことを吹き込んだのだ。奴を捕らえよ。こたびは義仲が最後の戦、伊豆で座っておるだけの頼朝も、我が軍の勇猛なる戦いぶりを伝え聞くであろう。者ども、戦の支度、怠りなくすすめ!」〉
平家一門の興亡を余すところなく物語った軍記物語『平家物語』は、清盛の父・忠盛が鳥羽院の御願寺を造営した功績によって昇殿を許される「殿上闇討」に始まり、清盛の曾孫・六代が処刑されて平家の血筋が絶える「六代斬られ」で終焉を迎える。全十二巻中には俊寛の島流しや富士川の合戦、壇ノ浦の合戦などの有名なシーンが立て続けに登場して滅び行く平氏一門の姿を追うのだが、悲哀は平家一門だけにあったわけではない。ここにあげた木曽義仲は、源氏でありながら時流に乗り切れず、後白河法王に疎んじられ、頼朝軍に破れて悲壮な最期を遂げるのだ。
兵を鼓舞した義仲は、彼の運命を変える「法住寺の戦い」に身を投じていく。この頃の京は養和の大飢饉の直後で食糧がなく、そこへ木曽育ちの無骨な武士たちが割り込めば、暴徒化するのは明らかだった。それを予測し、管理できなかった義仲にも上に立つ者としての落ち度があるが、彼を苛立たせる事柄ばかりが続いていたのも、また事実だった。もとより頼朝と義仲には源氏の嫡宗争いがあった上に、平家追討の立役者である義仲をさしおいて、鎌倉で様子を見ているだけの頼朝に征夷大将軍が授与されるという噂があったのである。後白河法皇と頼朝は、いまや目の上のこぶとなった義仲を、かなり意図的に挑発していたのだった。
義仲はやるせない怒りの矛先を後白河法皇に向け、二万騎の兵が守る法住寺殿に攻め込む。義仲の手勢は七千騎がいいところだったが、寄せ集めの法住寺殿守護軍など、義仲軍にとってはものの数にも入らない。やがて部下である樋口次郎兼光・今井四郎兼平の軍勢が新熊野から駆けつけ、法住寺殿に火矢を射掛けると、折からの強風に煽られて法住寺殿は瞬く間に炎上した。
さて、この法住寺殿は後白河法皇の院御所で、いまの京都市東山区にあった。内陣の柱間が三十三あることから名づけられた「三十三間堂」は、正式名称を蓮華王院本堂といい、法住寺の境域に建立された御堂のひとつである。後白河法皇は清盛によって鳥羽離宮に移されていた時期以外はここに政庁を置き、二条帝から後鳥羽帝までの五つの御世に渡って院政を敷いて、朝廷の権威存続のために様々なはかりごとを巡らせていたという。無論、そこには義仲への挑発も含まれている。法住寺の北方には平氏の住まう六波羅邸があり、当時は鴨川以東の地が政治・文化の中心地となっていた。
もともと鴨川以東の地は貴族たちに好まれた別荘地で、多くの貴族がここに山荘を営んだ。そのなかで比類なき規模を誇った法住寺殿は、最初は藤原為光の私邸だったが、のちに法皇に気に入られ院政の庁となった。東山山麓から南は泉涌寺通、西は大和大路通間までの広がりを持つ法住寺殿は、南・西・北に殿舎を構え、そのうちの南殿が正殿となっていた。周辺には新日吉神社や新熊野神社を建てて法皇の鎮守社としたため、東山の山麓一帯に堂塔が建ち並び、壮観を極めていただろうと想像される。
平家物語では「清盛の父・忠盛が三十三間の御堂に一千一体の仏像を据えて、鳥羽上皇に献上した」とあり、三十三間堂が平家の盛隆に大きく関与していたことがうかがわれる。この戦ではどうにか焼失を免れたものの、義仲は法住寺を壊滅に追いやったのを契機に、みずからの運を衰えさせていくのだった。
〈巴は東国へ落ち、手塚太郎も討ち取られ、ついに義仲と兼平の主従二騎となった。
「どうしたことかな。いつもはなんとも思わぬ鎧が、今日はひどく重く感じられる」
「お身体もお疲れではなく、馬も弱ってはおりませぬのに、どうして鎧の重いことがありましょう。お味方の少なさゆえのお心弱りならば、兼平一人を武者千騎と思し召せ。残り矢でしばらく敵を防ぎましょうから、殿はあれに見える粟津の松原で御自害を」
「なにを言う。この義仲、都で死ぬべきところを、ただそなたとひとつところにて死なんがために、ここまで逃れて来たのだ。離れて討たれるより、そなたと共にここで散ろう」
「弓矢を取る者は日頃いかに功名を成すとも、最期に不覚を取れば後々までもその名に疵が残ります。殿、御身はもはやお疲れになったのです。続く手勢もない今、名もない兵に討ち取られるのも口惜しいこと。さあ、あの松原にて御自害なさいませ」〉
義仲は法住寺の合戦で後白河法皇に勝利したものの、西国には平氏、東国には頼朝と身動きが取れないまま進むべき道も見出せず、やがて六万騎の頼朝軍の前に、主従七騎になるまで勢力を削ぎ落とされた。乳母子である兼平・巴の兄妹が最期までつき従ったが、女である巴は義仲の命で泣く泣く落ち延び、最期には「死ぬときは一緒に」と誓い合った兼平だけが残った。この時代、育ての君と乳母夫婦(養父母)の子供たちは、血を分けた実の兄弟よりもはるかに信頼のできる、とても親密な間柄だったという。兼平は最期まで敵と切り結んでいたが、義仲が討ち取られたと知ると太刀の切っ先を飲み込んで馬から飛び降り、壮絶な最期を遂げた。
「平家物語」における義仲は、決して英雄ではない。むしろ木曽山中で育った粗暴で野卑な荒武者として描かれ、都の礼儀を知らぬ姿がしばしば笑い者にされているが、それだけに読者には近しい者として感じられたことだろう。こうした共感は物語が進むにつれてさらに高まっていき、悲運に苛まれながらも兼平との熱い友情で満たされた「木曽最期」で、私たちの涙を誘うのである。義仲の墓は大津市の義仲寺にあり、俳人・松尾芭蕉は死んだら彼の傍らに葬ってほしいと遺言した。タイトルにもあるように、二人の墓は今も背中合わせに並んでいる。
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