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愛の追憶に生きて 『讃岐典侍日記』


 『讃岐典侍日記』(さぬきのすけにっき)は、堀河帝とその子・鳥羽帝に仕えた藤原長子が書き残した日記である。『和泉式部日記』や『更級日記』など、優れた女流日記が数多く残されている平安時代にあって、『讃岐典侍日記』はひときわ異彩を放っている。それはこの日記が、愛する人(堀河帝)の看取りと追憶をテーマにしているからだ。

 典侍(ないしのすけ。略してすけ)は後宮十二司のひとつである内侍司(ないしのつかさ)と呼ばれる部署のスタッフで、天皇の秘書的な役割を持ち、典侍は長官にあたる尚侍(ないしのかみ)に次ぐ次官にあたる。尚侍は早い時代から天皇の后妃に準ずる立場にあり、長子が生きた当時は典侍も同様だった。つまり長子は、堀河帝の秘書にして愛妾だったのである。

 長子にとっての堀河帝は、敬愛し、かしずくだけの帝ではなく、一人の愛する男だった。ただ仰ぎ見るだけの存在ではなく、互いにふれあい、心を通わせあう存在だったのである。それを失った深い哀しみが、彼女に筆を取らせた。『讃岐典侍日記』の上巻は、天皇という、当時は神と同じレベルで語られていた存在を自分と同じラインにまで引き寄せて書いた看取りの記から成り、下巻は堀河帝の子・鳥羽帝に仕えながら、季節の行事ごとに亡き人の思い出をたどる追憶から成っている。今回は下巻を中心に、天皇の住まいである清涼殿の様子を見ていこう。

〈こうしているうちに十月になった。「弁三位殿からお手紙です」というので受け取ってみると、なんと白河院さまから出仕の要請が出ていると書いてある。読み違いかと思うほどに驚いた。いくら新帝が故院のおかたみだと言っても、待っていましたとばかりに出仕するのは……やっぱり、あまり良いことだとは思えない。〉

 実権は父・白河上皇にあったものの、心優しく和歌や笛に堪能だった堀河帝は、「末代の賢王」と称されていた。だが頑健な身体に恵まれなかったため、嘉承二年(1107)の6月に得た病がついに治らず、その1ヵ月後に29歳の若さで崩御してしまう。藤原長子は堀河帝の闘病生活や崩御前後の様子を日記の上巻に克明に記し、数ヶ月の間を置いた同年の10月から、亡き帝への追憶を中心とした下巻を書きはじめた。引用文は、下巻の書き出しに当たる部分である。堀河帝を失ったのち、実家で悲しみに暮れていた長子のもとに、白河上皇から再出仕の命が下ったのである。断りきれず、長子はわずか8歳で即位した鳥羽帝への再出仕を決めた。

〈元旦の夕方には御所に上がった。門内の詰所に車を入れるだけで故院が思い出されて、胸がいっぱいになる。
 翌朝はひどい雪だった。故院のいらした頃となにひとつ変わらないお部屋の様子を眺めていると、ふいに「降れ降れ、粉雪」というあどけない声が聞こえてきた。「あら、どこの子かしら」と目をやると、それこそが故院のおかたみ・鳥羽帝なのだった。〉

 亡き堀河帝への思い出にひたる長子を、幼子の声が現実に引き戻す――鳥羽帝と長子の出会いのシーンは、なかなか印象的だ。鳥羽帝が口ずさむ『降れ降れ、粉雪』は童謡の一節で、吉田兼好の『徒然草』の第一八一段にも「鳥羽帝がご幼少のみぎりに、そのようにお歌いになっていたと『讃岐典侍日記』に書いてある」と出ている。あまたの女流日記のなかで必ずしもメジャーとは言えない『讃岐典侍日記』だが、兼好法師にも読まれていたのはおもしろい。それだけ、天皇の臨終の記というテーマが衝撃的だったのだろう。

〈ぼんやり座っていると帝がおいでになって、「ねえねえ、黒戸へ行く道がわからないから教えてよ」と私の手を引っぱる。お供をして黒戸のほうへ行ってみると、清涼殿も仁寿殿も昔のままだった。台盤所、昆明池の障子など、いま見ると昔の知人に会ったような気がする。中宮さまがいらっしゃった弘徽殿は、いまは関白さまの宿直所になっていた。〉

 長子は鳥羽帝の里内裏である小六条殿で7ヶ月間ほど過ごし、翌嘉承三年(天仁元年・1108)に、鳥羽帝ともに内裏に移った。この小六条殿での7ヶ月と、内裏に移ってからの5ヶ月間が、下巻に与えられているタイムスパンである。現実は現在から未来へと着実に進んでいるが、長子の想いは常に過去へと遡る。再出仕した鳥羽内裏において、長子はことあるごとに亡き堀河帝を思い出して涙に暮れるのだが、彼女を現実に引き戻すのは、いつでも幼い鳥羽帝だった。

 清涼殿は天皇が日常生活と公的儀式を行った場所だが、そのどれを見ても、長子には亡き堀河帝への思い出につながっていく。台盤所(女房が天皇の御膳を調える詰所。清涼殿の西庇)も昆明池の障子(弘徽殿の上御局と二間の境に置かれていた衝立障子。清涼殿東側の広庇)も、すべては亡き堀河帝と自分を結びつけるキー・アイテムでしかないのだ。


〈帝がおいでになって、「ぼくを抱いて、ふすまの絵を見せてよ」とおっしゃるので、朝餉の間のふすまの絵をお見せしてまわるうちに、またもや故院の思い出が浮かんできた。
 哀しみのあまり袖に顔を押し当てるのを、帝が不思議そうにご覧になるので、気づかせまいと「あくびで涙が出たのです」と申し上げる。すると帝は「みんな知ってるよ」とおっしゃる。その口ぶりがあまりにかわいらしくて「なにをご存知なのですか?」と尋ねてみると、「あのね、『ほ』の字、『り』文字のことを思い出していたんでしょう?」などと仰せになる。堀河院のことだと思うにつけてもかわいくて、悲しみも吹き飛ぶような心地だった。〉

 鳥羽帝に朝餉の間のふすまの絵(天皇が朝食を取ったり装束を改めたりした場所。清涼殿の西庇、夜御殿の西。台盤所の側の障子に倭絵が、御手水間には竹に雀、猫が描かれていた)を見せながら、長子は昔を思ってつい涙を浮かべてしまう。そんな彼女に、幼い鳥羽帝は「堀河帝のことを思い出していたんだろう」と告げる。8歳にしては妙に大人びたこの物言いは、しかし長子と堀河帝の関係をさらに強めてくれるものとして、日記世界に取りこまれていった。

 上巻で愛する人の死を書ききった藤原長子は、下巻では堀河帝と自分だけが持つ美しい思い出を引き出すことに成功した。これによって、長子はもはや何人にも侵されることのない、二人だけの世界を作り上げることができたのである。

 主従という「おおやけ」の関係のほかに、一個の男女という「わたくし」の関係も保持していた藤原長子と堀河帝。堀河帝には典侍腹の御子もいるため、長子にも御子を授かる可能性があった。長子にとっての鳥羽帝は、堀河帝のかたみであると同時に、生まれなかった「自分と堀河帝の子供」でもあったのだろう。しかも白河上皇からの再出仕の要請によって、長子は「愛する人の遺児を守り育てる」というスタンスを獲得したのである。そのことが、「御子こそ生めなかったものの、自分と堀河帝には並々ならぬ縁があった」という自負心につながっていったのだろう。

 日記の下巻は、一年間に限定されている。長子にとって、堀河帝との回想とともに過ごした一年間は、まったく過不足のないものであった。自分と堀河帝の二人だけによる一年間を完璧に作りあげたのちは、二年目以降を綴る必要はなかったのではないだろうか。

 筆をおいたあとも、長子は堀河帝への追慕の気持ちを抱きしめながら鳥羽帝に仕えた。だが10年後に「堀河帝の霊が乗り移った」などと言い出したらしく、出仕を差し止められている。哀れでも残酷でもあるが、ただただ愛する人を思い続けた藤原長子には、むしろふさわしい結末だったのかもしれない。



文 倉林 章

参考文献
讃岐典侍日記 全訳注 森本元子 講談社学術文庫
讃岐典侍日記 全評釈 小谷野純一 風間書房
源氏物語手鏡 清水好子ほか 新潮選書