子供の頃、絵本やTVアニメに出てくる食べものを見て、唾を飲み込んだことがある。絵本ではなんと言っても、『しろくまちゃんのほっとけーき』のホットケーキが一番だった。見開き12コマを費やしてホットケーキが焼き上がる様子が描かれているのだが、これがたまらなくおいしそうなのである。いまでも私の本棚にあるが、読み返すたびにほかほかのホットケーキが食べたくなってしまう。TVアニメでは、『アルプスの少女
ハイジ』に出てくるパンとチーズにかなうものはなかった。暖炉の火であぶったトロトロのチーズを厚く切った黒パンの上に乗せ、お椀には絞り立てのミルクをなみなみと注いで。ヤギのミルクとチーズなのだから、実際はかなり癖のある味なのだろうが、私には天国のごちそうのように見えたものである。
ハイジがアルムじいさんの山小屋で最初に取った食事「パンとミルクとチーズ」は、非常にシンプルではあるものの、決して粗末ではなかった。ごちそうはなくても、とても幸福な食卓の風景だったのだ。山小屋の食べものを口にした瞬間、ハイジのからっぽだった胃袋はもちろん、なによりも心が満たされていくのが手に取るようにわかる。同時に、『ハイジ』を読む私たちの心も、温かく満たされていくのだ。
〈なかは、小屋全体がかなり広々としたひとつの部屋になっていました。机がひとつ、椅子がひとつ、隅のほうにおじいさんのベッド、べつの隅にかまどがあり、その上に大きな鍋、そしてその向かい側の壁には大きなドアがついています。おじいさんがそのドアを開くと、なかは戸棚で服がかかっており、ある棚にはシャツと靴下、ハンカチなど。次の棚には皿、お椀、コップの類。一番上の棚には丸いパンと燻製にした肉と、チーズとが置いてありました。つまりおじいさんの持ちもの、日々の暮らしに必要なものが、残らずここに収まっていたのです。
「おじいちゃん、あたし、どこに寝るの?」
「どこだっていいさ」
ハイジはどこが一番寝心地が良さそうか、部屋の隅から隅までくまなく調べました。ちょうどおじいさんのベッドのわきに、小さなはしごが立てかけてありました。登ってみると、そこは干し草用の屋根裏部屋で、真新しい香りの良い干し草がうずたかく積んでありました。丸い天窓からは、はるかに谷が見下ろせるのでした。〉
生まれて間もなく両親をなくしたハイジは、5歳になるまで叔母のデーテに育てられていた。だがデーテがフランクフルトに奉公に出ることになったため、アルム山の山小屋にたった一人で住んでいる、頑固で偏屈な祖父のもとに預けられる。村人とはほとんどつきあわず、教会からも離れた生活を送っていたアルムじいさんは、突然やってきた孫娘に大いに戸惑う。そしてデーテのやりかたに憤慨するものの、無邪気なハイジに少しずつ心を開いていくのだ。
さて、ハイジたちが暮らす山小屋は、アルム山の山頂にあった。岩鼻の突き出たところに建っていて、風は吹きさらしだがそのかわり日当たりが良く、谷の景色が存分に見渡せる。小屋の裏手には3本のモミの木が枝を広げていて、その梢のざわめきが、ハイジの一番のお気に入りだった。小屋は母屋と納屋から成り、横手にはヤギ小屋があって、アルムじいさんはチーズ作りや木工などを手がけながら、日々のたつきにしていた。ハイジはここで祖父の静かな愛情とアルプスの豊かな自然に守られながら、健やかに育っていくのである。
〈おじいさんは立ち上がって、戸棚から晩ごはんを取り出してきました。ハイジは椅子をテーブルに寄せました。いまでは壁際にも、おじいさんの作ったベンチが、釘で打ちつけてあります。おじいさんもいまでは一人暮らしではありませんし、ハイジときたらおじいさんがどこで何をしていようと、必ずそのそばにつきまとってくるので、家中のあちこちに2人で座れる場所がしつらえてあったのです。〉
70歳のアルムじいさんは、5歳の孫娘との生活に最初は困惑していたものの、いつしかハイジのいない日々など考えることすらできなくなってしまう。小屋のあちこちに孫娘と2人で座れる場所を作った、というくだりなどは、読んでいて微笑ましくなるほどだ。だからこそ、フランクフルトに連れて行かれたハイジが自分のもとへ戻ってきたとき、「何十年ぶりに涙がその目にあふれ、しきりに手でぬぐった」のだろう。
〈ハイジは、今日1日の素晴らしかったことを残らず物語りました。とりわけ夕暮れの火事のことを。そこで、おじいさんもその火事がどうして起こるのか、説明しないわけにはいかなくなりました。
「いいかい、それはおてんとうさまのすることだ。山におやすみを言いながら、自分の一番きれいな光を投げてやるんだよ。明日また来るまで、覚えていてくれよ、ってな」
ハイジはこの話が気に入りました。そして、また朝になって牧場へのぼって、お日さまが山におやすみを言うのを見たくって、待ち遠しくてたまらなくなりました。けれども、それにはまず寝なければなりませんでした。干草のベッドでぐっすり眠りながらも、ハイジは一晩中、きらきら光る山々や、山上の赤いバラの夢ばかり見ていました。〉
『ハイジ』にはクララの足が治って歩けるようになるシーンなど名場面が多いが、私が取りわけ深い感銘を受けたのは、アルムじいさんが「アルプスの燃えるような夕焼け」について語った部分である。『さむがりやのサンタ』の回でも、子供からの問いに真摯に応えた新聞記者の回答文を紹介したが、みずから発した「なぜ」にこうした美しい言葉で答えてもらえた子供は幸せである。TVコマーシャルにもあった通り、「モノより思い出」なのだ。物質的な豊かさも必要だが、それ以上にこうしたコミュニケーションこそが――大人から注がれる温かな眼差しと夢にあふれる言葉こそが、子供の美しい魂を美しいままに育てていくのではないだろうか。
大都会フランクフルトでうわべだけの躾や教育を受けても、それはハイジの成長には結びつかなかった。それどころか、ハイジは山での暮らしを恋しがり、ついには夢遊病になってしまうのである。窮屈なフランクフルトでの生活のなかでハイジを支えたのは、愛すべき友人クララと、クララの祖母から教えられた「神への祈り」だった。素直でまっすぐなハイジは、教えられたことをすぐに理解し、忠実に実行する。クララの祖母から教えられた「神への祈り」はハイジを支え、やがては人間嫌い・教会嫌いだったアルムじいさんまで感化し、彼と村人とのあいだにあった溝を埋めてしまうのである。
ハイジの無邪気な愛の力は、ハイジに会う人すべてに幸せと変化をもたらしていく。ハイジの純真さは、あたかもアルプスの山々のように、人間の小さな利己心や虚栄心などとは遠くかけ離れたところにあるのだ。ハイジはどんな局面でも、誰を前にしていてもアルプスの自然児であり、かつ敬虔な神の子だった。全編を通してやや宗教色が濃いのは、スイスのアンデルセンとも称される作者ヨハンナ・シュピーリに、牧師の血が流れていたせいでもあっただろう。だが、それだけではない。ヨハンナもハイジと同じくスイスの自然に抱かれながら、そこに暮らす人々の姿や貧富の差、運不運を曇りのない目で見つめ続けきたのである。そうした経験を踏まえた上で生み出されたハイジは、アルプスの自然、言い換えれば神の恵みそのものを体現している子供なのだと言えるだろう。
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