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格子なき牢獄から 『アンネの日記』


 ナチスによる「ユダヤ人迫害」に倒れたアンネ・フランクは、1929年に、ドイツのかなり裕福なユダヤ人一家に生まれた。その後ナチスの手を逃れてオランダのアムステルダムに移ったが、第二次大戦の勃発によりオランダはドイツに占領され、ここでもユダヤ人の弾圧に遭ってしまう。アンネ一家は隠れ家に逃れて、戦争の終結を祈りながら2年にも渡って窮屈な生活を耐え忍んだが、彼女たちが待ち望んでいた「解放の時」はやって来なかった。それよりも一歩早くナチスの秘密警察が現われ、アンネ一家はアウシュビッツ収容所に送られた最後のユダヤ人として、ポーランドへ連行されたのである。
 ドイツの秘密警察は、アンネ一家を隠れ家から連れ去る際、一家が持っていた金目のものをすべて奪い尽くした。残ったのは、アンネの日記帳ただひとつ。そしてそれを再び目にしたのは、アンネの父オットー・フランクだけだった。



〈踊り場の右手のドアが、わたしたちの隠れ家へ通ずる入口です。この灰色の質素なドアの内側に、こんなにたくさんの部屋が隠されていようとは、だれだって想像しないでしょう。ドアの前に段がひとつあって、それを上がると、もう隠れ家のなかです。〉


 アンネは13歳の誕生祝いにもらった日記帳に、「キティ」という名をつけた。日記は、このキティという架空の友達にあてた書簡形式で綴られている。ここには隠れ家での不安な毎日や共に暮らす人々のこと、将来への夢などが素直に吐露されている。
 1942年、アンネ一家はアムスデルダムの中心部にある、プリンセン運河沿いの隠れ家に移り住んだ。彼女たちの隠れ家は、運河に面したオランダ家屋の裏側にあった。ここはもともとオットーが経営していた会社の社屋の「別館」で、表と同じ四階建ての大きな建物だった。隠れ家と言っても市街地にあり、しかもこれほど大きい建物が2年間もナチスの目を逃れることができたのは、運河に面したオランダ家屋が持つ、特殊な構造のおかげだった。



 オランダが国をあげて世界規模の海外貿易を展開していた16〜17世紀、アムステルダムの商人たちは、貨物の上げ下ろしを簡便化するために、運河沿いに家や倉庫を建てた。だが遠距離輸送のほとんどを海路に頼っていた当時、運河沿いの土地は価格が高騰していたため、人々は運河側に必要最小限の間口だけを設けた細長い家を作った。とは言え、細長い家々が運河沿いにひしめきあっていたのでは室内に全く日が射さなくなってしまうため、彼らは建物を半分に分け、「表の家」と「裏の家」を階段でつなぐ方式を採用したのである。
 ドイツの秘密警察は、こうしたオランダ家屋の構造について、なにも知らなかった。オットーはそこに目をつけて、三階の踊り場から「裏の家」へ通じる入口を蝶番つきの本棚で偽装し、「裏の家」の3・4階部分を一家の隠れ家としたのである。


〈ドアを入ると、すぐ向かい側に、勾配の急な階段があります。階段の左手の狭い通路を入ると、フランク家の寝室兼居間、その隣の小さな部屋がフランク家の二令嬢の寝室兼勉強部屋になります。ドアを入ってすぐ右手に、洗濯場と便所のある窓のない部屋があります。わたしたち二人の部屋には、この部屋へ通じるドアがあります。また階段をのぼってドアを開けると、運河に面したこんな古い家に、こんな大きな明るい部屋があるのかと驚くほどの部屋に出ます。この部屋は実験室に使われていたおかげで、ガス・ストーブがついており、洗濯場もあります。〉

 アンネ一家を支援したのは、オットーの会社で働くスタッフたちだった。ミープをはじめとする支援者たちは、アンネ一家のために、少ない配給券を分け合って食料を集めた。その献身的な働きにより、アンネ一家は飢えることこそなかったが、窓という窓をすべて分厚いレースのカーテンで覆い、あらゆる物音に怯えて暮らすストレスは、想像を絶するものだっただろう。「裏の家」の1・2階部分で社員が働いているため、日中はトイレにも行けず、咳ひとつにも音を殺すように気を使わなければならなかったのである。

 それでも、社員が帰宅する夜間や土曜の午後、日曜日だけは、アンネ一家は社屋のなかを自由に歩き回ることができた。本棚で偽装した秘密のドアから抜け出て、2階の事務室などでつかのまの休息を取っていたのである。だが、結局はそれが命取りになった。社員の一人が、「休日空けの会社に残っている人の気配」に気づき、ユダヤ人が社屋のどこかにひそんでいると疑いを持つようになって、ドイツの秘密警察に密告したのである。
 二年という月日は、決して短いものではない。細心の注意を払っているつもりでも、アンネ一家を含め8人もの人々が密室で始終鼻をつき合わせていては、そのあまりのストレスに、注意力が散漫になってしまうのも無理はなかった。

〈わたしの最大の希望がジャーナリストになり、それから有名な作家になることだということは、あなたもずっと前から知っていますね。この野心が実現するかどうかは、もちろんまだわかりませんが、すでに心のなかで、題材を考えています。ともかく、戦争がすんだら「隠れ家」と題する本をあらわしたいと思っています。成功するかどうかわかりませんが、日記が非常な助けとなるでしょう。〉
 
アンネは唯一のストレス発散の場である日記帳に、共に暮らす人々や自分を取り巻く状況について、なんでも率直に書きつけた。恋の芽生えからその行方までも、正直に思った通りを書き、精神的な自立を果たしていく。格子なき牢獄のなか、恐怖に怯える生活をしながらも、アンネは決して未来への希望を捨てなかった。大人たちが起こす戦争と人種差別に激しい怒りを表す一方で、それでも人間の根本は「善」なのだと信じる気持ちを忘れなかった。この精神的なたくましさが、最後の最後まで、アンネを力強く支えていったのだろう。

〈ああ、キティ、今日は素晴らしいお天気です。外出できたら、どんなに嬉しいでしょう!〉

 だが、思春期らしい背伸びをした言葉をどれだけ並べてみても、アンネはふとした瞬間瞬間に、どこにでもいるただの子供の顔をのぞかせる。それがたまらなくいじらしい。
 人と話したい、自由になりたい、友達がほしい、一人になりたい――アンネは声にできない魂の叫びを、ひたすらペンに込めた。だが彼女の日記は、1944年の8月1日付けで唐突に終わってしまう。ついに、恐れていた日がやってきたのだ。アンネ一家は日記が終わった3日後の8月4日、ドイツの秘密警察の手によって強制収容所へ送られた。そしてアンネは収容所でチフスにかかり、15歳の短い生涯を閉じるのである。
 アンネが書き残した日記は、現在50を超える言語に翻訳され、全世界でのべ2000万部以上も出版されている。こうした、どの書店や図書館にも必ず置いてあるような名著は、名著であるがゆえになんとなく読んだつもりになり、実際には手に取らないまま終わってしまうことがある。私にとっては、『アンネの日記』がそうだった。だが『アンネの日記』は、テロ事件が相次ぐいまだからこそ読みたいし、読んでもらいたい1冊だと思う。
 アンネ一家の隠れ家は、現在もアンネ・フランク財団によって保存され、世界中から多くの人々が訪れている。戦争と人種差別に対する最も真摯な「起訴状」である彼女の日記と隠れ家は、私たちの魂に、平和への願いをしっかりと刻みなおしてくれることだろう。


文 倉林 章

参考文献
アンネの日記 皆藤幸蔵・訳 文芸春秋
思い出のアンネ・フランク 深町眞理子・訳 文春文庫
世界の伝記 アンネ・フランク 田中澄江・監修 集英社