「われわれはすべてゴーゴリの『外套』から出発した」と言ったのは、ロシアの文豪ドストエフスキーである。19世紀ロシア文学の基礎を築いたゴーゴリは、平凡な庶民の生活に目を向けて、社会を鋭く風刺しつづけた。だが常に理想と現実の板ばさみに苦しみ、晩年は4年もかけて書いた原稿をみずからの手で燃やしてしまうなど、悶死とも言える悲惨な最期を遂げている。
さて『外套』の主人公アカーキー・アカーキエビッチは、年俸400ルーブルの貧しい万年九等官である。ゴーゴリ自身がサンクト・ぺテルブルグで下級官吏を経験しているため、作品には当時の役人生活が随所に出ていて興味深い。ことにタイトルにもなっている『外套』に寄せるアカーキーの思いは、服や靴を買うためにこづかいを倹約をしたことのある人ならなおさら、深い共感を持って読むことができるだろう。
〈身分の高い役人連中でさえ、この酷寒にあっては額のあたりが痛くなり、目からは涙がぽろぽろとこぼれだすのだから、貧乏な九等官などしばしば身の置きどころがなくなる始末である。〉
冬の朝8時から9時頃、マローズ(厳寒)は、道を行くすべての人々に容赦なく襲いかかる。貧乏なアカーキーは毎朝どうしようもない寒さのなか、いつも決まった道を駆け抜けるようにして役所に向かっていた。だがどうも最近、肩から背中にかけての寒さが、妙にこたえる。外套を手に取って調べてみると、長年着古したそれはもうボロボロで、懇意の仕立て屋にも繕いようがないほどひどくなっていた。途方に暮れるアカーキーに、仕立て屋はあっさり「ここはひとつ、新調なさることです」と告げる。大げさでもなんでもなく、このたったひとことが、彼の人生を大きく変えてしまうのだった。
アカーキーはそろそろ老境にさしかかろうかというひとりもので、こつこつと仕事をしているにもかかわらず、誰からも尊敬されないヒラの公務員だった。だがそれを不服とすることもなく、ただただ懸命に仕事に励んでいた。ベッドとテーブル、書きもの机があるだけの安下宿の一室に住み、持ち帰り残業もパンとシチー(キャベツのスープ)程度の貧しい食卓も厭わないアカーキーにとって、外套の新調など、これまでに考えたこともないような贅沢だったのである。
〈アカーキー・アカーキエヴィチは、考えに考えた末、その日その日の費用を節約する、それを少なくとも1年は続ける必要があるだろう、という結論に達した。〉
外套なしで、ロシアの冬を越すことはできない。悩みぬいた末に、アカーキーは貧しい生活をさらに切り詰めて、ついに新しい外套を手に入れた。このときは普段アカーキーをばかにしている役所の連中も、こぞって彼の新しい外套を褒めたたえ、上司の家で「アカーキー外套新調記念パーティ」が計画されるほど盛り上がった。こんなふうに人々の話題の中心になることなどなかったアカーキーにとって、この日はまさに幸福の絶頂だったのである。
さて作品内ではこのシーンに前後して、19世紀ロシアのアパートの様子が描かれている。少し拾ってみよう。
〈4階か、そうでなければ3階あたりの部屋に住んでいる役所仲間のところへ、ぶらりと出かけて行く。そこはせいぜいこぢんまりした部屋が2つばかりに、控え室か、それとも台所がついているほどの住居で、流行に遅れまいとして買い入れたランプか、またはそういったたぐいの別の小さな品物も置かれているが、それは昼食を抜いたり、ピクニックをやめたりして、ずいぶん苦しい思いをして手に入れた品物だった。〉
引用したのは、アカーキーよりも幾つか上の階級にいる役人のアパートである。「アカーキー外套新調記念パーティ」が開かれた上司宅は、建物の3〜4階ではなく2階にあり、部屋数も多く女中もいるような贅沢な暮らしをしていたが、多くの役人たちは引用にある程度のところに住んでいた。この当時からロシアでは「都市はアパート、地方は一戸建て」という図式があり、現在では都市部で一戸建てに住んでいる人はまずいない。そのかわり郊外に小さな別荘と菜園を持ち、週末は畑の世話をして過ごすのが一般的になっている。
図はゴーゴリの時代より少しあとの19世紀末から20世紀初頭にかけて建てられたアパートと、70年代以降に建てられたアパートだが、古いほうのアパートは部屋数は少ないながらも、一室あたりの面積が広い上に天井も高く、あちこちに装飾や彫刻が施されている。対して近代のアパートは全く逆で、ひとつひとつの部屋は狭く、内装もかなり安っぽい。広さは50〜60m2のものがほとんどで、台所とバス・トイレのほかに2〜3室あり、それを居間兼寝室や子供部屋に割り当てて使っている。もっとも一戸のなかにいくつ部屋があっても購入しなければ使えないので、4Kのアパートに住んでいても2部屋しか使えない場合もある(つまり2K+開かずの間2つ)。若い夫婦などは子供の成長に合わせて資金を貯め、徐々に部屋を買い足していくらしい。
また住宅不足が深刻な地域や、経済的な余裕がない人々のあいだでは、1戸を複数の家族でシェアする場合(コンムナルカ)もある。上の例なら開かずの間になっている部屋にほかの家族が住み、玄関、台所、バス・トイレを共同で使用するのだ。いずれにせよ、ロシアの住宅事情はなかなか厳しいものらしい。
『外套』に戻ろう。自分のためのパーティに招かれ、喜びに酔っていたアカーキーだが、その幸せはほんの一日も持たなかった。パーティの帰り道で、アカーキーは新調の外套を、追いはぎに奪われてしまうのである。
失意のどん底に叩き落されたアカーキーは、見て見ぬふりをして助けてくれなかった巡査などは当てにならぬと悟り、気力を振り絞って「有力な人物」であるところの勅任官に訴えに出た。だが薄情な勅任官は耳を貸さないどころか「どうして君はそんなことが言えるのかね? 君の前に立っているのが誰だか、わかっているのかね?」とアカーキーを叱り飛ばす。そのショックから病を得て、アカーキーは「閣下、悪うございました」とうわ言を繰り返しながら、とうとう息を引き取ってしまうのだ。
それからしばらくするうちに、ぺテルブルグの街に妙な噂が立ちはじめた。カリンキン橋のほとりに夜な夜な幽霊が現れ、外套を着ている者を見るとだれ彼かまわずに襲い掛かり、「これはわしの外套だ!」と言ってひっぺがすというのだ。もちろん、この幽霊はアカーキーだった。幽霊となったアカーキーは少しずつ行動範囲を広げながら勅任官との遭遇を待ち、ついに彼の外套を奪い取る。もとは善人のアカーキーである、勅任官の外套を奪ったら気が晴れたのだろう、それ以降はぱったりと姿を現さなくなった。
〈この出来事は、彼に強い感銘を与えた。彼は部下の者たちに向かって「どうして君はそんなことが言えるのかね? 君の前に立っているのが誰だか、わかっているのかね?」〉などという口のききかたをするのは非常にまれになり、もし言ったとしても、それはまず事情をよく聞いてからにするのであった。〉
ゴーゴリは外套のために命を落とした哀れな男の一生を、滑稽さとおかしみのなかに封じこめて綴っている。「ロシアよ、お前はどこへ疾駆するのか?」とはゴーゴリの残した有名な言葉である。彼が胸のうちに宿していた社会への風刺は、文中に表れる「笑い」のなかに、強く託されていると言えるだろう。
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