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日本でいちばん有名な猫 『吾輩は猫である』

 日本でいちばん有名な猫の名前を聞かれたら、「ない」と答えるしかないかもしれない。夏目漱石の『吾輩は猫である』は、ちょっぴり皮肉屋な無名の猫の視点を通して、人間の滑稽さを描いた長編小説である。「笑いと苦味」が微妙に混じりあったこの作品によって、夏目漱石は一躍文名を上げ、その後「三四郎」や「こころ」「坊ちゃん」などの名作を次々に発表していくことになった。

 〈吾輩は猫である。名前はまだない。どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめしたところでニャーニャーないていたことだけは記憶している。〉
 飢えと寒さで倒れる寸前に苦沙弥(くしゃみ)に拾われたものの、主人とその妻、3人の娘、女中からなる苦沙弥一家のなかで、"猫"は招かれざる客だった。女性陣にはちっとも構ってもらえず、それどころかいまだに名前さえつけてもらえない"猫"は、とりあえず自分を拾ってくれた苦沙弥にくっついて過ごすことにする。苦沙弥が新聞を読むときにはひざの上、昼寝をするときは背中の上に。そのうち朝は飯櫃の上、夜はこたつの上、天気の良い昼間は日当たりのいい縁側を自分の居場所と決めた"猫"は、やがてそこから見える人間の生活に興味を抱くようになる。
 〈主人は縁側へ白毛布を敷いて、腹ばいになって麗かな春日に甲羅を干している。……細君は今日の天気に乗じて尺に余る緑の黒髪を、麩海苔と生卵でゴシゴシ洗濯せられたものと見えて、癖のないやつを見よがしに肩から背へ振りかけて、無言のまま子供の袖なしを熱心に縫っている。〉

 苦沙弥の職業は教師で、学校が終わるとすぐに書斎にこもって小難しい本のページをめくるのだが、天気が良いと座敷の縁側で寝そべっているのが常だった。普段は茶の間で針仕事をしている妻も、この日は洗い髪を乾かしがてら、日当たりのいい座敷で縫いものをしていた。そのときに交わされた夫婦の会話がおもしろいので、少し引いてみよう。たばこをふかしながら縁側で日向ぼっこをしていた苦沙弥は、針仕事に精を出す妻のうしろ姿を眺めているうちに、妻の脳天に大きなハゲを見つけて驚愕するのである。
 〈「嫁に来るときからあるのか、結婚後あらたにできたのか」と主人が聞く。もし嫁に来る前からはげているのならだまされたのであると、口へは出さないが心のうちで思う。
 「いつできたんだか覚えちゃいませんわ、はげなんざどうだって良いじゃありませんか」
 「どうだって良いって自分の頭じゃないか」
 「自分の頭だから、どうだって良いんだわ。女は髷に結うと、ここがつれますから誰でもはげるんですわ」
 「そんな速度でみんなはげたら、四十くらいになれば、空やかんばかりできなければならん。脳天が――ことに若い女の脳天がそんなにはげちゃ見苦しい。なぜ嫁に来るとき頭を見せなかったんだ」
 「バカなことを! どこの国に頭の試験をして及第したら嫁にくるなんてものがあるんですか」〉
  "猫"に言わせると、偏屈な苦沙弥は妻からもあまり珍重されていなかった。妻にも持てない理由を年の差のせいだと信じこんでいた苦沙弥だが、実際はこうしたデリカシーのない物言いが不興を買っていたのだろう。だが妻も妻で、結構遠慮なく言い返している。なんだかんだ言って、微笑ましい夫婦の日常だ。
 〈細君は箒とはたきを担いで書斎の方へ行ってしまった。……ここの細君の掃除法のごときに至ってはすこぶる無意義のものと言わざるを得ない。何が無意義であると言うと、この細君はひとえに掃除のために掃除をしているからである。はたきをひと通り障子へかけて、箒を一応畳の上へ滑らせる。それで掃除は完成したものと解釈している。掃除の原因及び結果に至っては、微塵の責任だに負っておらん。故にきれいなところは毎日きれいだが、ごみのあるところ、ほこりの積もっているところはいつでもごみが溜まってほこりが積もっている。〉
 苦沙弥は家人になにか言われても返事をするのが億劫なタイプで、妻もすでに無駄な努力はしないようになっていた。このときも起こしてくれと言われた時間に声をかけてもウンともスンとも言わないので、妻は勝手にしなさいとばかりにさっさと書斎の掃除にかかっている。縁側での会話といい、掃除のエピソードといい、夫婦のありようは今も昔もそう変わらないようだ。妻の掃除のしかたなど、読んでいるこちらにも思い当たる節があるので、思わず苦笑してしまう。

 このように、漱石は小説のなかで人々の日常生活を頻繁に描いている。特に『吾輩は猫である』に出てくる苦沙弥一家は漱石の家族がモデルになっていて、舞台も執筆当時に住んでいた千駄木の住宅をほぼそのまま使っている。この住宅は明治23年に森鴎外が、明治36年から39年まで夏目漱石が住んだ、当時の典型的な中流住宅である。この家で鴎外は『文づかひ』を書き、漱石は『吾輩は猫である』を書いて、それぞれ文壇へ歩みだして行った。
 では、『吾輩は猫である』のなかで、各部屋がどのように使われていたのかを見てみよう。文中には読んでいくだけで間取りがわかるほど部屋と部屋の関連が記されている上、現在「明治村」(愛知県)に千駄木の住宅が移築保存されているので、実際に彼らの住まいを覗いてみることができる。


 まず書斎は苦沙弥専用の部屋である。苦沙弥は日当たりの良い場所に大きな机を置き、本を読みながらしばしばうたた寝をしていた。座敷は客が通される場所で、苦沙弥はここで友人と囲碁や雑談に興じた。天気が良い日は、妻が髪を乾かしながら針仕事をしている。

 縁側は座敷の縁側が一番日当たりが良く、苦沙弥と"猫"の昼寝の場所だった。座敷の隣には夫婦と三女の寝室があり、その奥の六畳が長女と次女の寝室兼遊び場だった。"猫"は2人の寝床にもぐりこんで寝るのが好きだったが、猫嫌いの次女に見つかると大騒ぎになる。六畳間の隣が茶の間で、ここには食卓や長火鉢があった。主人の朝食用のパンや砂糖、ジャムなどは茶の間の用箪笥に入っていたらしい。妻が針仕事をしたり、客に茶を入れたりするのもここである。

 主人である苦沙弥は南に面した書斎、座敷、寝室を主な居場所とし、妻の領域である北側の茶の間には食事のときくらいしか入らなかった。また苦沙弥が子供と関わるシーンが少ないことを見ても、当時の中流家庭では主人と家族の生活領域が明らかに区別されていたことがわかるだろう。ただ"猫"だけが、その境目を気にせず自由に行き来していたのである。

 〈次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。……我輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。〉

 小説の最後で"猫"は人間を真似て飲んだビールが災いし、水瓶に落ちて死んでしまう。実際、漱石の家にはこの小説となった黒猫がいて、漱石の妻・鏡子から福猫だとかわいがられていた。その黒猫は明治41年に死に、漱石はあちこちに死亡通知を書いたという。
 新宿区にある漱石公園(漱石終焉の地。「漱石山房」と呼ばれていた住居跡がある)には、この黒猫や文鳥など、漱石が飼っていた小動物たちのための供養塔「猫塚」がある。昭和28年に復元された素朴な石塔だが、今も訪れる人が絶えない。


文 倉林 章

参考文献
現代日本文学全集「夏目漱石集(二)」 夏目漱石 筑摩書房
現代日本文学アルバム「夏目漱石」 辻邦生ほか 学習研究社
日本建築の鑑賞基礎知識 平井聖 至文堂