努力をすれば、夢はかなう。
誰でもそう思いたいものだし、また今日の日本ならば、どうしようもなく途方なものでない限り、大抵の目標は努力いかんでなんとかなるだろう。だがかつて――そう遠くない昔、どんなに努力を重ねても、ほんのささやかな幸せにすらたどりつけない人々が、山のようにあふれていた時代があった。『駱駝祥子』はそんな頃の、一中国青年の生きざまを活写した小説である。
1930年代、解放・改革以前の中国。のちに「らくだ」とあだなされることになる祥子(シャンツ)は、大志というにはありふれた、けれど彼にとっては大きな希望を胸に抱いて、田舎から北京に出てきた。彼の夢とは、大都会・北京でいっぱしの俥引き、すなわち自前の車を持つ「高等車夫」になることだった。
ここに出てくる車というのは、日本でいう人力車のことである。中国では東洋車(トンヤンチャ。東洋は日本の意)、略して洋車(ヤンチャ)と呼ばれ、30年代の北京には城内だけで約4万台も走っていたという。銀行や広場の前はもちろん、レストラン、盛り場、胡同(フートン。横丁、路地の意)の入口にも洋車がたむろし、ひと声「洋車!」と叫べば3、4台が飛んできて、日本の人力車よりもやや長目の梶棒を、客の足元にすべりこませていたらしい。
祥子も頑健な身体ひとつを頼りに、まずは1日ごとに損料を払うレンタカーの車夫から仕事をはじめた。それから3年間、寸暇を惜しんで働き、食べるものもろくに食べないで節約して、ついに念願の新車を手に入れた。新車を引いていっそう仕事に励む祥子だったが、せちがらい大都会のなかで、彼の幸せは無常にもついえていった。
内戦に巻きこまれて車を徴発され、無理やり入営させられた祥子は、奪われた車の代わりにラクダを連れて軍を脱走。それを売った金も結局は官憲に巻き上げられて第二の車が買えなくなったり、悪い女にだまされて結婚したりと、次から次へと災難がふりかかる。
そんななかで、祥子が唯一安心して働けたのが、曹先生の家だった。ここのお抱え車夫だったときの祥子は、稼ぎは少ないものの、おだやかな毎日を過ごすことができたのである。
〈曹先生夫妻はそろって温和な人柄で、車夫でも女中でも、1人の人間として扱ってくれた。……曹先生を乗せる資格があるのは自分だけだという誇らしい気持ちになって、走っているのが楽しくて仕方なかった。屋敷に帰れば、どこもかしこも清潔で、いつも静かなので、祥子はこころよい落ち着きを感じていられた。〉
逆に同じお抱えでも、ひどい目に遭ったのが楊先生の家である。楊家の人々は使用人を奴隷と見なし、給金を払う以上は、搾り取れるだけ搾り取らなければ、引き合わないと思っていたのだ。
〈主人1人に夫人が2人、この2人が互いに張り合って、数え切れぬほどの子供を作っていた。……買い物から帰ってくると、こんどは第一夫人が庭の掃除を命じてきた。いったい楊家では主人といい、第一夫人といい、第二夫人といい、外出するときはきれいに着飾るのだが、屋敷の中は、部屋でも庭でもまるでゴミの山で、見ていると気持ちが悪くなってくる。〉
曹家も楊家も、屋敷の形態は四号院(スーホーイェン)と呼ばれるものだった。これは北京などに多く見られる、中国北方の民家の特色を備えた伝統的な住宅で、中庭(院子)を囲んで、その四方に建物が配置されている。内は中庭に向かって開かれ、外は堀や建物によって閉じられるという重層的な空間構成は、外と内、公と私をきっちりと分かつ中国の生活習慣に従ったものである。同時に、奥行があるほど良いとする、中国人特有の空間志向を如実に表していた。現に古い文献などでは、宮殿や邸宅の素晴らしさを表現するのに、しばしば奥行の深遠さや中庭の多さが上げられている。こうした特長は、古代の宋廟から紫禁城の宮殿、そして四号院に至るまで綿々と受け継がれてきた、中国の伝統だった。
では、四号院の内部を見てみよう。曹家の屋敷も楊家の屋敷も、場所は特定できないものの、北京の胡同の一画にあったと思われる。桃園、幸福、雪池など、美しい名前のついた胡同に入っていくと、それぞれの屋敷の門が見えてくる。門をくぐるとすぐに中庭があり、その四方に、それぞれ渡り廊下でつないだ建物があった。それが四号院だ。
〈門の横に部屋が2つあって、真ん中を板で仕切ってある。一つが張媽の部屋で、もうひとつが彼の部屋というわけだ。〉
基本的には南向きの正房に家長が住み、東西の庇房は子供や息子の家族などに割り当てられ、使用人は北側の門の横に部屋をもらっていた。中庭にはレンガを敷き詰めて花壇をしつらえ、子供の遊び場や家族の団欒の場とする。まさに、封建的な大家族制度に適した家だったのである。もっと大きな、一族全員で住むような大邸宅になると、敷地内にいくつかの四号院を組み合わせ、片側か、もしくは裏手などに凝った庭園を作った。祝日や家長の誕生日などには中庭に宴会用の小屋を掛け、スペースがあれば舞台を設けて役者や芸人を呼び、盛大に祝ったという。だが現在では、一族ではない別々の家族が数世帯で同居する共同アパートに変わっている。一族が核家族をベースにした小さな単位になるのに従い、四号院もまた、小さく分割されていったのである。それにともなって、中庭や回廊にも大幅な増改築が施された。原形をとどめているものは、ほとんどないと言っていいだろう。
現在の中国では、住宅の多くを国や工場、学校などが管理している。大きな工場になると敷地内に住宅から商店、病院、学校などを完備しているため、さながら小さな村のようになっているという(職住近接)。こういった住宅事情の変遷によってもとの姿を失った四号院に、今度は2008年のオリンピック開催に向けた再開発の波が押し寄せてきた。再開発の方針は改装や改築ではなく、完全な取り壊しである。胡同も四号院も一部を資料用に保存するのみで、ほとんどは消え去る運命にあるらしい。
中国北部の伝統的な住宅・四号院にとどまらず、実は中国には、「古い歴史を持つ実物」は意外なほど残っていない。その長大な歴史にも関わらず、木造建築だけを取ってみても、唐末(9世紀末)以前に立てられた遺構は5つしかないという。同じく木造を主流とした日本と比べると、驚くほど残存率が悪い。これは中国と日本における、「興亡」の性格によるものだろう。中国では歴史が大きく変わるたびに、人為的な破壊が繰り返された。前代のものを打ち壊し、その上に新しいものを築くことによって、変革を推し進めてきたのである。
歴史とともに、人々のライフスタイルも変化する。公営住宅の分譲も増え、公から個へと少しずつ移行するに従い、住宅事情もまた新たな変遷をたどるに違いない。交通も、洋車から輪タク(三輪車型の人力タクシー)、そして自動車へと姿を変えた。オリンピックに向けた再開発が終わり、80年代初頭から生まれ
はじめた「一人っ子」たちがそれぞれの家庭を持つようになったとき、北京の住宅事情は、またひとつの大きなターニング・ポイントを迎えることになるだろう。
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