ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず――日本の古典には、知らず知らず暗誦してしまうような名文が多い。『方丈記』の冒頭部分も、そのひとつである。これほど流麗で、しかも一抹のわびしさを感じさせる文章は、ほかにないだろう。
『方丈記』の「方丈」は、鴨長明が晩年に住んだ庵の大きさを指している。1丈は約3メートルだから、4畳半くらいだろうか。長明は50歳で出家を果たすと、京の都から8kmほど離れた日野に移り、外山の地に庵を結んで住みはじめた。『方丈記』は、そこで思いついたことを書き留めたものである。
〈家というものは、何世代にも渡ってずっとそこにあるように見えるが、本当に昔から続いている家なんていくらもない。火事に遭って建て替えられたものもあれば、没落して、大きな屋敷が粗末な小屋に変わったものもある。都に住む人間だって、人口こそ今でも多いが、顔ぶれはどんどん入れ替わる。見知った顔なんか、二、三十人に一人がいいところだ。まあ、家のことであれこれと気を揉む人は、そのへんのことがわからんのだろう。〉
長明は、相次ぐ天災と動乱のただなかを生き抜いた人である。平安時代から鎌倉時代へ、貴族の世から武士の世への激動の変革期を、彼は過不足無く味わってきた。瓦解していく都と、天災や戦乱に巻きこまれて死んでいく人々とをリアルタイムで見つめ続けてきたからこそ、彼の視点は「人と住まい」に注がれるのだろう。家は人の身分や境遇を、なによりも明確に表すものだからである。
長明は人の世のはかなさを、安元の大火・治承の台風・福原遷都・養和の飢饉・地震という5つの事象をもって描いている。いずれも実際に見聞きしたのは20代後半の頃で、その後30年近く経ってから当時のありさまを思い出しつつ『方丈記』に書き記したのだが、よほど忘れがたい出来事だったのか、当時の他の日記類と照らし合わせてもいろいろな事柄がピタリと一致する。ここは『方丈記』の中でも緊迫感の漂う名文であるだけでなく、記録文学と呼べるほど歴史的価値の高い部分でもある。いくつか拾ってみよう。
〈あれはたしか、安元三年(1177)四月二十八日のことだった。風のひどい日で、夜の八時頃、ついに火が出た。火は東南から西北にかけて広がり、大内裏の朱雀門、正殿の大極殿、大学寮、民部省にまで燃え移って、朝にはすべてが灰になった。……この大火事で公卿の屋敷だけでも十六戸が焼けたのだから、庶民の家なぞ推して知るべしだろう。まったく、都というところは危険だらけだ。こんな場所に、大金を使い、神経をすり減らして家を建てるなんて、バカバカしいにもほどがある。〉
すでに貴族の存在は、お飾り的なものになって久しかった。宮廷儀礼の独占によってようやく体面を保っていた貴族たちは、この大火事で、その儀礼の場であった大極殿すらも失ってしまう。ほかにも式部省、勧学院など旧体制の多くが焼き尽くされ、再建されないまま消え去った。安元の大火は、まるで時代の趨勢に反応したかのように、旧体制の中枢部をことごとく壊滅させたのである。
大火事それ自体は決して珍しいものではなく、この前にも後にも起こっている。だが大内裏が焼失し、それがついに復興されないまま終わってしまったことは、大きな意味を持つだろう。焼失したままになった大内裏に反して、庶民の家や店屋(たなや。平安末期から現れた新しい商店街)は、すぐに復旧した。滅び行くものと新しく生まれ出るもの、世の中の栄枯盛衰が、都の建築物にもまざまざと現れたのである。
〈治承四年(1180)の六月には、突然の遷都が起こった。役人や時勢に乗り遅れまいとする人々が慌しく新都に移って行くにつれて、住み手がいなくなった家は次第に荒れていった。……結局、世間が浮き足立ったせいもあって、半年後には京へ還都となった。だが一度荒れた都は、もう元には戻らなかった。〉
〈養和時代には、二年にも渡って深刻な飢饉が続き、目も当てられない状態になった。都というものは、生活に必要な物資をすべて周辺地域に頼っている。飢饉によってそれらの物流が途絶えると、都の人間は、貴重な家財道具を二束三文で売りさばきはじめた。〉
還都まもない都を、次は長い飢饉が襲った。旱魃に洪水、疫病――農村部が受けた大ダメージはそのまま都にも響いた。食料から衣料まで必需品のすべてを農村部に依存していた都は、瞬く間に荒廃していったのである。
こうして若い長明の目の前で、都は盛者必衰の理さながらに転変を続けた。天災と人災による破壊が繰り返されて行くのをつぶさに見るにつけ、長明は世におごり、富を誇ることの空しさを、いやというほど思い知ったことだろう。世の無常と人間のはかなさは、やがて長明に「人はどう住み、どう生きるべきか」を考えさせるようになったのである。
〈人の世はとかく生きづらい。私は五十歳を迎えたのを潮に出家し、六十路に入ったいま、残り少ない余生を過ごす場所を作った。……今度の住まいは、広さはわずか一丈四方、高さは七尺にも満たない。土台を組み、屋根は仮葺きにして、木材の継ぎ目はかすがいで留めた。東側に三尺ほどの庇を張り出して炊事場とし、南側には竹のすのこを、その隣に仏への供え物を置く閼伽棚を作った。障子を隔てた北側には阿弥陀如来と普賢菩薩の絵を掛けて、その前に法華経の経巻を置いた。〉
50歳で出家した長明は、京都郊外の日野山で草庵暮らしをはじめる。それは山菜や木の実で飢えをしのぎ、持ちこんだ琵琶や琴で孤独をなぐさめる、静かな日々だった。読経に身が入らないときは無理をせずに休み、たまに山番の子供と遊びながら、長明は草庵暮らしを楽しんだ。7歳で従五位下という位を授かりながら、一族同士の軋轢によって出世の道を断たれ、人の世の悲惨さを十分に見てきた長明は、ここに至ってようやく心の安らぎを得たのである。彼はさらに続ける。
〈心が安らかでなければ、どんなに立派な財宝や宮殿があっても意味がない。私は、この草庵暮らしを愛している。なるほど都へ出かけたときには、自分が乞食にでもなったような気がして恥ずかしくなる。だがここに帰ってくると、ほかの人々が俗事に追われているのが、気の毒になってくるくらいなのだ。〉
これこそ、長明の本音なのだろう。
長明は人の世の移り変わりを、「無常」という仏教用語でとらえ、理解した。だが「京」という都にとって、この破壊と混乱は古代から中世へ脱皮するために、必要不可欠なものだったのではないかと思う。災害は時と場所を選ばないが、これだけの災害が重なると、それはもうただの偶然という言葉では語れなくなってくるのではないだろうか。
災害自体に歴史的な意味はなくても、災害が歴史の流れに拍車をかけたり、その勢いを借りて事態が急変することは、大いにありうる。貴族の「平安京」は滅び、やがてその地は、武士によって「京都」と呼ばれるようになった。長明の生きた都は、まさにそんな時代の都だったのである。
長明は、『方丈記』のラストを、草庵での独居を愛する自分を戒める言葉で締めくくっている。自給自足のおだやかな老境にある長明は、心身ともに満ち足りたみずからの出家者スタイルを、厳しく問いたださずにはいられなかった。おのれの生きかた、そして人の世の有り様を妥協せずにまっすぐに見つめ続けた長明の姿勢は、これからも読む者の心をとらえ続けていくことだろう。
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