「開けゴマ」の合言葉で盗賊団の財宝を手に入れた『アリ・ババと40人の盗賊』、富豪のシンドバッドが荷担ぎのシンドバッドに語る『船乗りシンドバッドの冒険』、貧しい少年がランプと指輪の精の力を借りて幸せをつかむ『アラジンと魔法のランプ』……誰でも、一度は耳にしたことがあるだろう。天下の奇書『アラビアン・ナイト』は、アラビアの美女と魔法の魅力に満ちた、楽しく不思議な説話集である。その内容は実に多彩で、冒険譚に旅行譚、寓話、逸話、恋愛もの、ファンタジーなど、180のメイン・ストーリーに加えて、100を越えるサイド・ストーリーがある。まさに物語の宝庫だ。
このユーモアとペーソスに富んだ長大な物語は、美しく聡明な娘・シェへラザードによって語られていく。夜ごと物語を紡ぐなんて、一見楽しそうだが、シェへラザードにとっては緊張の連続だった。彼女は、ただの暇つぶしとして物語を語っていたのではない。命がけで語っていたのである。
実はこの国の王・シャリアールは、前の妃が不貞を働いてからというもの、深刻な女性不信に陥っていた。世に住むすべての女性が信じられなくなり、毎晩新しい娘を夜伽に召しては、翌朝になると処刑していたのである。そんなことを3年も続けていたものだから、国中の乙女は全滅。最後に残った大臣の長女は捨て身の覚悟で国王のもとへ行き、知識を総動員しておもしろい話を続け、傷ついた国王の心を癒そうと試みた。
「ねえ、お姉さま。まだお眠くなかったら、なにか楽しくておもしろい、これまでに聞いたことのないようなお話をしてくださいな」
「ええ、喜んでお話ししましょう。お情け深くお優しい王さまが、お許しくだされば」
「ふむ。話すがよいぞ」
『アラビアン・ナイト』に登場する男女は、とにかくピンチに強い。各物語の主人公たちだけでなく、その語り部たるシェへラザードと妹のドニエラザードも、知恵と勇気で幸運を引き寄せ、目の前の困難を打ち破っていく。
「おお、お恵み深い王さま」
さて、シェへラザードの話がはじまるようだ。私たちも、彼女の話に耳を傾けてみよう。
〈アラジンは我が家にたどり着くと、ランプをこすりました。
「ご主人さま、どうぞ、なんなりとご用を」
「用事というのはほかでもない。王宮の真正面に、大至急、御殿を作ってもらいたいんだ。みんながびっくりするようなヤツをね」
……ひとわたり眺めたアラジンは、その素晴らしさに肝をつぶして驚きました。石という石はすべてトルコ石やアラバスター、スマキ産の大理石ではありませんか。口や筆に尽くせない種々さまざまな家具調度類がぎっしりと並び、すみずみまで真珠や宝石が散りばめられているのです。〉
『アラビアン・ナイト』の世界は、8世後半から13世紀なかばまでの約500年に渡って続いたアッバース朝と、その近隣諸国を舞台にしている。物語のなかにもたびたび登場する第5代目カリフ(イスラム教の教主としての国王)のハルン・アル・ラシッドは、産業や貿易を振興し、学者・文化人を集めて科学と芸術を奨励した名君だった。そのため、アッバース朝の首都バクダッド(現イラク共和国の首都)は、「世界に比類なき都」とうたわれ、人口も100万人を超えたという。
この都を美々しく彩ったのは、幾何学模様やアラベスク(植物)模様などのモザイク・タイルがあしらわれた、数々の礼拝堂や宮殿などだった。イスラム建築にはドームやアーチなどの多くの興味深い特徴があるが、そのなかで最も目を奪われるのは、こうしたモザイク・タイルを使った豪華絢爛な装飾だろう。アラジンがランプの精に命じて作らせた立派な御殿も、宝石のほかに、色とりどりのモザイク・タイルで埋め尽くされていたにちがいない。
中近東の、茫漠たる砂漠に囲まれて暮らす人々は、生活空間に緑豊かな中庭と、精緻な装飾模様を求めた。街中の家々も、外に対しては殺風景で強固な壁を巡らせているものの、1歩邸内に足を踏み入れれば草花と小鳥の声にあふれ、その落差に驚かされるという。建物もまたしかりで、たとえば邸内で一番重要視されている応接室には、可能な限りの資金を注ぎこみ、モザイク・タイルや漆喰彫刻、寄木細工で壁や天井を埋め尽くしているという。もっとも、裕福な層でなければ、とてもこんな贅を尽くした施工はできない。それでも家全体というわけにはいかず、もっぱら大切な客人(「お客さまは神さまの友だち」という諺がある)をもてなす応接間に絞って、タイル細工を施すのが普通である。やはり手間がかかる分、費用も相当な額がかかるのだ。
こうしたタイル細工は、イスラム文化圏が誇る伝統工芸である。それを伝えていくためにタイル作りの実務学校があり、タイル成型やタイル割りを教えているという。
タイルは普通、皿や花瓶などの他の陶器製品と一緒に作られる。材料の粘土を水に浸し、やわらかくなった頃を見計らって足で踏んでこね、タイル用の板材に成型し、乾燥させてから釉薬をかけて焼く。焼きあがったらタイルの形を下書きし、斧などでかち割って形にしていく。できあがったタイルは2cm四方くらいのごくごく小さなものがほとんどで、数十種類を越すタイルをそれぞれ小袋に詰めて現場へ持っていき、そこで模様を組み立てている。
壁などに装飾を施す場合は、まず畳2畳分くらいのパートに分けて、何万ものタイルを裏向きに並べる。タイルの模様や色目、方向を間違えないように、細心の注意を払ってひとつずつ手作業で並べていくのだから、根気のいる仕事である。タイルを並べ終わったら石膏を流しこみ、固まったものをひっくり返すと、写真のような美しいモザイク・タイルの壁ができあがる。時には間違ったタイルを混ぜてしまうこともある
が、そのときにはひっくり返したのちに掘り出し、正しいものと入れ替えるのだという。
最近のモザイク装飾には、小さなタイルを埋めこむのではなく、あらかじめ釉薬で模様を描いたプリント・タイルを使用しているものも多い。そのほうがずっと安上がりだからである。とすれば、現在残っている邸宅や礼拝堂などの伝統的建築物のモザイク装飾は、一度破壊されると、復元させるのは資金的にも容易ではないということになる。もしこうした建造物を戦乱などで失うことがあったとしたら、その損失はあまりにも大きい。
中近東はいまも、終わりの見えない戦乱と混乱のなかにある。凶悪なテロリストの存在で「中近東は危険だ。イスラム教ほど暴力的な宗教はない」と単純に考えてしまいがちだが、12億人ものイスラム教徒全員が暴力的というわけではないだろう。この世に、幸せと平和な暮らしを願わない人などいない。そもそも「イスラム」とは、「平和」という意味なのだ。マスメディアが流す偏ったイメージだけでとらえては、真の理解にはつながらないだろう。
『アラビアン・ナイト』をひもとくときは、地図と世界史の本も一緒に開いて、中近東の国々の位置や、その歴史についても学びたいと思う。歴史と実態を知ることは、小さいけれど、平和への確かな第一歩なのだから。
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