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清少納言の風流らいふ

 春はあけぼの・・・言わずと知れた、『枕草子』の冒頭部分である。
 「春は、やっぱり明けがたが一番よ」の名文句に誘われてページを繰っていくと、清少納言の感動や怒り、そしてひそやかなクスクス笑いまでもが、一千年の時を越えてじかに伝わってくる。彼女が鮮やかに描ききった平安貴族の暮らしぶりを、『枕草子』から少しだけ拾ってみよう。

時は999年、8月。
 中宮定子がいよいよ臨月を迎えたので、お付きの女官たちも含めて、みんなで平生昌(たいらのなりまさ)の屋敷へ移動することになった。本来なら実家に帰るところなのだが、このときの定子には帰る場所がなかったのである。実家・二条邸は火事で焼失、後ろ盾だった父は他界。おまけに政治家として活躍していた兄たちは、藤原道長に蹴落とされて全員失脚という、まさに踏んだり蹴ったりの状態だったのである。

 こうなってくると、世間の風は冷たい。今まで定子をちやほやしていた連中も、新興勢力の道長の顔色を伺うばかりで、誰も協力を申し出てくれない。そんななかで場所を提供してくれたのが、変わらずに定子の味方でいてくれた、平生昌だった。

 ただしこの生昌、ハッキリ言って、帝の后を招待できるような身分ではなかった。

 宮廷に出入りする公務員としては、下から数えたほうが早いくらいの、ごく普通の中級役人なのである。そんな彼が無茶を承知で自分の屋敷に定子を呼ぼうというのだから、さあ大変。招かれた清少納言たちも、大変だった。

 定子の行啓が決定すると、生昌は大急ぎで屋敷の東門を四つ足のものに作り変えた。四足門というのは門柱の前後に2本ずつの袖柱のある門(つまり6本柱)で、普通は親王家や大臣家だけに許される、特別の門である。中宮ともなると、普通の門からでは入ることさえできないのだ。

 貴族の屋敷としては最低レベルの生昌邸だが、とにかく御成門だけは完成したので、定子はそこから御輿で邸内に入った。清少納言はというと、彼女は北門にクルマ(牛車)を横付けして、そこからサッと入るつもりだったらしい。

 ところが現場に着いてびっくり。生昌邸の北門は狭すぎて、乗って来た高級大型車が横付けできないのである。しかたなく路上に停車して筵を敷き、その上を渡って屋敷に入ったのだが、そんなことは考えてもみなかった清少納言は文句ブーブーだった。

「どうせガードマンもいないだろうし、クルマからそのままお屋敷に入っちゃえばいいやと思って、私、髪なんかバッサバサでしたの。それなのに、わざわざ見物に来ている人までいるし……サイアクでしたわ」

 ふくれっつらの清少納言を、一足先に邸内で落ち着いていた定子が、苦笑まじりにたしなめる。歳は清少納言のほうがずっと上なのだが、『枕草子』を読む限りでは、清少納言のほうがどこか子供っぽいからおもしろい。

「どこにだって人の目はあるのよ。どうして身だしなみを整えておかなかったの」
「いいんです、どうせ私なんか、いつもラフな格好ばかりしていますから。それにしても、まさかクルマが横付けできないなんて!」
 などと不満を並べていたところへ、ホスト役の生昌が挨拶にやってくる。清少納言は、ここぞとばかりに、軽いジャブを繰り出した。

「ちょっと生昌さん。あなた、どうして屋敷の門をあんなに狭くしておくのよ」
「ハハハ、すみません。これくらいが我が家の格と私の身分に、ちょうどいいのですよ」
 生昌の身分の低さを承知の上で、屋敷の手狭さを指摘するのは、ひどい意地悪にも見える。だがこうした歯に衣着せないおしゃべりこそが、ウィットとトークで鳴らした清少納言の、生昌への精一杯のねぎらいと感謝の証なのだ。生昌も、それがわからない男ではないから、軽く笑って受け流すのである。

 さて、その日の夜。
 引越しでバタバタとしているうちに日が暮れ、昼間の疲れもあって、清少納言たちは与えられた部屋で早々に休むことにした。このとき彼女たちに割り当てられたのは、東の対屋(たいのや)の、西の庇の間である。

 平安時代の貴族の邸宅は、「寝殿造り」と呼ばれる様式のものだった。平安京造営のときに宅地として与えられた一町(120m×120m)の土地に、図(1)・図(2)のような邸宅を建てたらしい。もちろん地位や経済力などによって差はあっただろうが、これが基本形式だった。

寝殿造り
図(1) 図(2)

 まず屋敷の周囲に塀をめぐらせ、東西、あるいは四方に門を建てる。中心に南向きの寝殿(主人の居間や客間)を据えて、北・東・西にそれぞれ対(家族や使用人の部屋)と呼ばれる別棟を置いて渡殿(通路)でつなぐ。南面の庭には池と築山を配し、東西の対から南に伸びる廊(廊下。中間に門を設け、駐車場やガードマンの詰所を併設する)の先には、池に乗り出すかたちで泉殿と釣殿をしつらえる――ざっとこんな風だった。

 図(3)は寝殿の詳細図である。対屋もこれとほぼ同じ作りで、母屋のまわりを東西南北の庇の間がぐるっと取り囲んでいる。庇の間には仕切りがないから、清少納言たちは適当に几帳(カーテン)を置いて、雑魚寝をしていたのだろう。ここに、屋敷が急に華やかになって、完全に舞い上がってしまった生昌が忍んでくるのである。

図(3)

 真夜中、妙に上ずった声で目覚めた清少納言は、色男ぶってふすまの隙間から流し目を使っている生昌を見つけて、隣に寝ていた若い同僚を揺り起こした。眠さに負けて、北側のふすまの鍵を確かめなかったのが悪かったらしい。考えてみれば生昌はこの屋敷の主人なのだから、どこでも出入り自由なのだ。

(ねえ見て見て、カレ、来てるわよ)
 同僚は生昌の姿に大爆笑。清少納言も笑いをこらえて、生昌に聞こえるように言った。
「あら、そこにいるのは誰かしらねえ」
「いえ、ちょっとね、ホスト役として、あなたと御相談したいことがありまして」
「私、さっき門のことは言ったけれど……ふすまをどうこうしろなんて言ったかしら?」
「ま、そのことも含めて御相談を、と思いまして。入ってもよろしいですか?」
「御冗談ばっかり。絶対にダメですわよ」
 答えたのは、笑いを必至にかみ殺していた同僚のほうだった。清少納言一人かと思っていた生昌は、驚いて決まり悪げに帰っていく。

 清少納言と同僚は、「女の部屋に忍びこむのに、いちいち了解を求めるバカがいる?いいわよ、なんて言う女なんかいるわけがないんだから、さっさと入ればいいのよ」と笑い合い、翌朝さっそく定子にも報告して話の肴にするのだが、これも決して強い非難や嘲笑の対象としてではない。

 帝の后・国の母でありながら、あまりに不似合いな場所で出産に臨まなければならなかった定子に、清少納言ができることといったら、楽しい話題を提供することくらいだった。このうえ出産を終えて宮廷に戻る頃には、唯一の拠りどころである夫・一条帝に、藤原道長の娘が嫁いでくるのである。しかも定子と同じ立場の、第一夫人の座を狙いながら。

 こうした定子の深い悩みを知っているからこそ、清少納言は『枕草子』に、明るい話題しか持ちこまなかったのではないだろうか。この屈託のない明るさの裏には、おそらく数え切れないほどの涙があったはずなのである。

 翌年、定子は2人の子を残して世を去った。定子の死とともに、清少納言もまた、後宮サロンを去る。在りし日の定子と、この世の美しいものすべてを称えた珠玉の随筆・『枕草子』だけを後世に残して。


文 倉林 章

参考文献
枕草子 池田亀鑑校訂 岩波文庫
源氏物語手鏡 清水好子ほか 新潮選書